第4章 興津



4.6.伊藤邸:独楽荘

[1]建築主と建設時期
[2]立地と建物



[1]建築主と建設時期
 伊藤博邦(1870(明治3)年〜1931(昭和6)年)は伊藤博文の養嗣子であり,実父は井上馨の兄で,伊藤博邦は井上勝之助の弟にあたる。1878(明治11)年に伊藤博文の養子となった。22歳で宮内省に入って以来1929(昭和4)年まで39年間に渡って宮中に職があった4-70。興津に別荘を造営したのは1918(大正7)年頃と伝えられ4-71,これは48歳頃にあたる。伊藤博文の伝記『春畝遺稿』はここで編纂されたといわれている。
 伊藤博邦が興津に別荘を造営した経緯は明らかではないが,興津の井上邸には親戚としても,公務としても出入りしており,この土地はよく知っていたものと思われる。
 博邦の死後は伊藤博精が引き継ぎ,戦時下にあっては現常陸宮ら皇室の子弟たちがここを使用した4-72。
 この建物は1950(昭和25)年,農林省東海近畿農業試験場に譲渡され,1973(昭和48)年までは同試験場の寮とされ,その後清水市の所有となり1982(昭和57)年3月に取り壊された4-73。小さな石倉のみが富士市内に移築され,現在さらに移築を重ねて富士市立広見公園に保存されている。
 伊藤博邦は生活改善同盟会長も歴任しており,この団体は生活の近代化,合理化を進めたことで知られている。伊藤自身も「大正11年東京市外大井町の四千坪の大邸宅を手離して麻布龍土町に[坐ることを一切廃した]簡素なる家を建て,率先して範を示した」と伝えられている4-74。こうした人物が,一方で興津の別荘に見られるような和風の隠れ家といえるような閉ざされた別荘を指向したことは,公私における背反のようなものを感じさせて興味深い。



4-70 『大人名事典(1)』p.261
4-71  『興津地区年表』p.88
4-72 『興津三十年誌』p.552
4-73  同書p.552および『庵原やすらぎ街道』p.16
4-74 『大人名事典(1)』p.261 尚,この団体は「時の記念日」を制定したことで有名である。



[2]立地と建物
 立地は農商務省農事試験場園芸部(現在の農林水産省果樹試験場興津支場)に隣接しており,南東斜面の山の中腹に位置している。南側に門があり,山道を歩いて住居に達する。東側には農事試験場の農園が眼下に広がり,北西の背後の山も農事試験場の柑橘畑である。一方からしか出入りができず,周囲は公的機関の土地である点,きわめて治安に配慮した敷地といってよい。景観は清見潟,三保の松原はもちろん,東側が開けているため山越しに富士山も望むことができ,眺望は絶好の場所といってよい。
 建物は写真で見る限り和風の書院風の様式であったと思われる。一部分は斜面に張り出すように建てられていたことがわかる。建築的史料は乏しいが,玄関に掛かっていたという「独楽荘」の扁額が伊藤家に所蔵されており,これには「庚申」「陶庵主人」と記され,1920(大正9)年に西園寺公望によるものであることがわかる。


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