第4章 興津



4.2.井上邸

[1]建築主
[2]建設時期
[3]立地
[4]建物
[5]造園等
[6]井上邸の特徴



[1]建築主
 井上馨(1835(天保6)年〜1915(大正4)年)が興津に別荘を造営したのは1896(明治29)年頃で,当時彼は62歳であった。年譜等によると,その後晩年になるに従い興津で過ごす期間は増え,特に1908(明治41)年74歳のとき興津で重患に陥ってからは回復後も興津で過ごす期間が多くなった。1915(大正4)年に彼は81歳で没するが,このときも興津においてである。当時は元老で侯爵である。
 井上は鹿鳴館に代表される欧化政策で知られるが,一方で世外と号した近代茶人でもあり,そうした和洋両面の顔をあわせ持つ人物が,別荘という私的な場所において,どのような景観や建築を指向したのかは興味深いことである。(写真4-10)
 井上馨の死後は,養嗣子(馨の甥)の井上勝之助(1861(文久1)年〜1929(昭和4)年)が長い海外生活の後に移り住み,東京の本邸よりも興津に主に滞在したと伝えられている4-20。



4-20 柿沼昇『井上侯と西園寺公の逸話』p.137



[2]建設時期
 井上馨の伝記『世外井上公傳』では,「建築の嗜好」という節が設けられ,そこに井上の本邸,別邸の数々と,普請道楽ともいえる建築好きのさまが書かれている。ここで興津の別荘は「初め公のこの地に別荘を経営したのは二十九年の頃」4-21と紹介されている。また,同書の「美術文芸と鑑賞奨励」の節には次のような記述があり,井上の狂歌が紹介されている。
「二十八年十月に公は特命全権公使を免ぜられ,二十九年の新春を興津に在つて迎へた。興津にて六十二歳なる申の年を迎て
耳順なる老におもにを付[け]くわゑ言[は]ず聞[か]申年をむかゑり」4-22
 さらに,次の狂歌も紹介されている。
「明治二十九年二月四日興津を出立して東京の家に歸りけるとき世塵を避くるため,人に逢わぬため,両三日滞在して再び興津におもむきける
我家に歸るも人の目にかくれ戀にもあらで世をいとふ身は」4-23
 これらの狂歌からは,別荘に滞在したのか他の宿泊施設に滞在したのかは判別できないが,井上自身の言葉によって,1895(明治28)年から96(29)年にかけて興津に滞在したことがわかる。これらの記述から,井上馨が興津に別荘を造営したのは1895(明治28)年か96(29)年と判断される4-24。
 この別荘は1945(昭和20)年7月6日,空爆によって焼失した4-25。



4-21 『世外井上公傳(五)』p.606
4-22 同書p.566
4-23 同書p.568
4-24 『袖師町誌』p.360では「明治29年1月」と記され,北野彗『興津と元老』には明治28年に建設を始め,29年1月に竣工とある。
4-25 『興津地区年表』p.99



[3]立地
 興津地区西端と隣接する横砂地区にまたがる波田打川両岸の一帯で,東北西の三方を山で囲われ,南側は東海道線までの敷地であった。東海道線と海岸は当時は接していた。敷地面積は「約5万坪」4-26とか「約十七町歩」4-27と伝えられている。残された旧公図と見られる地籍図(図4-7)の全部の範囲が井上邸の敷地だとすれば,現在の地図と比べてこの広さとほぼ合致する。この図によれば,邸宅の位置は波田打川西岸で横砂地内にある。この図で地籍が宅地とされているのはこの部分だけである。
 図4-7では,この宅地部分のすぐ東側に地番が細かく振られ,地籍は山林とされた土地がある。この部分は現存しないが,小高く隆起しており,「米糠山」と呼ばれていた。この隆起はかつての地図でも確認できる(図4-3)。米糠山には,昔ある長者がこの場所に住み,米糠を捨てて堆積したという伝説があり,『世外井上公傳』でもこれを紹介している4-28。井上邸の俗称である「長者荘」の名称はここから起こっている。井上は米糠山の頂部に自身の巨大な立像を建立し,これを写した写真が伝えられている(写真4-11)。あまり品のよいものとは思えないが,一種のランドマークとなっていたことが想像される。

写真4-11 井上邸 西側の山から米糠山を見る(『袖師町誌』p.360)


 『世外井上公傳』には,邸宅の位置について,造営当初は「北に丘陵を負うた低い地所」にあったが,1910(明治43)年に米糠山に立像が建立された後,「翌四十四年にその山麓に建物を引移した」4-29とある。『世外井上公傳』の口絵には立像の除幕式の写真が載っているが(写真4-12),引移し前のこの時点では確かに邸宅は米糠山の南側にある。『世外井上公傳』は引移し後の景観を次のように記す。
「こゝに於て座敷より南方海上を望み,右手前面に茶席山があり,左に米糠山銅像を控へ,從來よりは一層風景絶佳の位置と爲つた。」4-30
 ここでいわれている茶席山は,東海道線の脇に隆起した部分で,先の図ではやはり細かく地番が振られている。かつての地図でもまた隆起が確認できる(図4-3)。また,図4-7は引移し後の記述どおりの位置に建物が描かれていることから,1911(明治44)年以降に作成されたものと推測できる。

写真4-12 立像の除幕式の写真(『世外井上公傳(五)』口絵)




4-26 『興津と元老』p.15 同書には次の記述がある。「侯は帰京すると早速,積善会々長や鴻池銀行専務理事をやっている懇意な原田二郎氏を呼んで,波多打川畔の浄見長者山(或は待乳山,米糠山とも云う)を中心とした敷地五万坪の買収方を依頼し,原田氏は庵原郡庵原村の農業杉山平作及び小長井与一郎を介し,四十人に及ぶ地主との買収交渉に取り掛り,坪当り一円五十銭から三円までで宅地七反,みかん園九町歩,山林八町歩,水田三反の買収に成功した。」また,『井上侯と西園寺公の逸話』p.19でも同様の面積を伝えている。
4-27 『東海道薩垂峠:東と西の出会う道』p.65
4-28 『世外井上公傳(五)』p.607
4-29 同書p.607
4-30 同書p.607



[4]建物
 居住部分の主たる建物は2棟からなり,図4-7によれば,2棟が南側の空地を囲むように,その北側と西側に直交して配置されていたことがわかる。『世外井上公傳』によれば,これらは移築によるものであり,井上が1886(明治19)年に群馬県の磯部に造営した別荘の主屋と,1880(明治13)年に東京麻布鳥居坂に造営した本邸の一部であることが語られている4-31。北側に配置されているのが磯部からの建物で,西側に配置されているのが鳥居坂からの建物である。これらはそれぞれ,本館,別館と呼ばれていた4-32。
(1)本館
 本館は,明治40年,当時の皇后がこの別荘に行啓した際にその経路を記録した略図として,不完全ながらその平面を知ることができる(図4-8)。

写真4-13 井上邸 本館(『庵原やすらぎ街道』p.9)


図4-9 本館推測図


 この建物は磯部邸の説明として『世外井上公傳』で,次のように紹介されている。
「この建築は各種の木材を寄せ用ひ,外觀を美しくするといふよりは,寧ろ素朴にして強靱な様式で,廊下の垂木に細い皮付のまゝの白樺や雑木を用ひてあり,二十畳敷の大廣間の床柱に両国の橋杭古材を利用したなど,公が好尚の反映とも見られて頗る面白いものである。殊に階上洋風の三室には鉋のかゝらぬ柱を用ひ,天井にも自然のまゝの丸木を縦横に渡してあるなど,歐洲の田舎にでも見るやうな構造で,當時の建築技師の思及ばぬ所と思はれる。」4-33
 井上の最晩年から井上邸の執事を務めた柿沼昇4-34の記述によれば,井上は食事を「八畳の日本間」でとり,「東の桜の床柱」を背に座る。この部屋は,「押入が床の間の北側にあって,食堂の出入り口と共に」4-35あったと記されている。これらの記述から食堂の床の間,押入の配置と開口部がわかる。続いて柿沼は「大広間と,食堂の間に六畳の蝶々の間という部屋」があると記しており,この「蝶々の間」は読書や接見に使われたという。皇后行啓の際の略図とこれらの記述を総合すると,大広間-蝶々の間-食堂はいずれも2階の3室を示しているものと判断される。略図には食堂の床と押入は表現されていないが,「蝶々の間」の押入は記述と一致する。これらからこの建物は2階が主たる居住空間であることがわかる。皇后行啓の際も2階(「階上」と記されている)を主たる室としており4-36,1階(「階下」)は「高等官休所」等とされている。略図は階段の位置等から1階と2階の向きが90度回転して示されており,畳数等の記述から略図を補正して推測すると,図4-9のようになる。また,大広間の「両国の橋杭古材を利用した」床柱は,柿沼によると「直径一尺四寸位」という4-37。通常の床柱の概念からはかけ離れた太さにもかかわらず,由緒ある古材を利用するという趣向は,別荘ならではの当時の建築のあり方を示しているといえよう。外観は略図では「洋館」と記されているが,残された写真(写真4-13)や文献の記述からすると洋風とはいい難く,あえていえば和洋折衷といえるだろう。写真によれば2階の方が階高が高く,和洋折衷の度合いも2階の方が大きい。1階は通常の和風のように見える。いわば和館の上に洋館の意匠を載せたように見え,後の目から見れば不思議な建物であったと思われる。和風としても洋風としても様式が未消化で明治期の特徴を示す建物といってよいだろう。
(2)別館
 別館は,旧鳥居坂本邸の新館とされた部分で,1889(明治22)年に鳥居坂本邸が焼失した際に火災を免れた部分である。旧鳥居坂本邸では,1887(明治20)年に明治天皇らが行啓した際に天覧歌舞伎が催されたが,その玉座になったと伝えられているのがこの建物である。

写真4-14 井上邸 別館(『井上侯と西園寺公の逸話』p.50)


 『世外井上公傳』はこの建物を次のように描写している。
「頗る清楚に出來上つてゐて,檜材なども特に選ばれて,いづれ名ある工匠の手に成つたものである事は首肯される,兎に角總じて公の意匠が此處にも想察し得られる。」4-38
 また,柿沼の描写によれば次のようにある。
「建物は純和風で瓦葺き平屋にて,東の間が十畳,西の間が八畳,東の裏に四畳半の御召し替えの間があり合せて三間となっている。」「東西の間三方は四尺の松の廊下一枚板を用いてあった。」「東の間には百日紅の美しい芸ママのある床柱を用いその左は出入口となって,床の間は[こくたん]右方は壁となっていた。西の間は[したん]の床柱で床は神代杉の渋いものであった。左の方に押入がついていた。中央に小さい炉が設けてあって冬は炬燵を使用されたのである。二間の間の唐紙は渡辺華山の絵で,東の間に面した方には雄大な老松,西の面は雁が五羽たわむれているもので洵に美観であった。この二室をしめる雨戸は三方だが全然外面に戸箱(戸袋)を見せず,東の間と西の間の奥へ戸箱を仕込んで巧妙に作ってあった。戸は廊下の角に縦の車を設けてあり,自由に戸を廻わせる仕組みになっていた。これは侯が創案したものだと云う。廊下の高さは二尺で土台石からでは二尺七寸ぐらいでかなり高い。東の間の外に踏石を設けてあった。西の間の西側に二間の御水屋があり,そのうらに御不浄があった。この奥には風呂場と更に御不浄があって,踏み板は臭気を消すため楠を用いられてあった。」4-39
 天覧歌舞伎の際にはこの座敷が玉座となって,その前に舞台が設けられたという。これらの記述や写真(写真4-14)から,この建物は東南西の3面が掃き出しの開口部をもち,室の周囲には縁が巡る,書院風の意匠であったことが推測される。
 本館と別館の背後には,鉄筋コンクリート造の倉庫が造られ,井上の蒐集した茶道具や美術品が納められていたという。建設年は確定できないが,明治期の鉄筋コンクリート建築がきわめて少ないことは周知の通りであり,最初期の鉄筋コンクリート造であったことは間違いないと思われる4-40。



4-31 同書p.606 同書では,この建物の建設に関わった人物として「末松謙澄」なる人物が記されているが,これは伊藤博文内閣の内務大臣等を務めた人物の名であり,おそらく誤記と思われる。
4-32 同書p.490,590
4-33 同書p.591
4-34 1914(大正3)年6月に農場と別荘の管理者となり,まもなく執事になったという。『井上侯と西園寺公の逸話』p.203,208
4-35 同書p.77
4-36 同書p.240
4-37 同書p.77
4-38 『世外井上公傳(五)』p.592
4-39 『井上侯と西園寺公の逸話』pp.49~51
4-40 村松貞次郎『日本近代建築技術史』pp.145〜148によれば,鉄筋コンクリート造の建物がつくられたのは,1905(明治38)年ないしは1906(明治39)年が最初とされている。『袖師町誌』p.360および『井上侯と西園寺公の逸話』p.107によれば,井上邸の鉄筋コンクリート造の倉庫は日本初だと伝えられているが,建設年等が確定的でなく,真偽は定かではない。



[5]造園等
 広大な敷地にははっきりとした境界はなく,いわば邸宅の周りを取り囲む山が境界となるので,見渡せる範囲の総てが庭内であったといえる。このなかの米糠山の頂部に高さ4.8m,重さ8625Lもある銅像が建ち4-41,その東側の麓には波多打川が流れ,ここに滝も落ちていたという。また,明治41,2頃から「十薮町歩の廣い土地」4-42に農園を造り,柑橘類を栽培していた4-43。「大門から玄関迄は,玉砂利で約五百メートル」,「庭の芝生は凡そ三百坪」等の広大さを強調する記述が残る4-44。
 『世外井上公傳』等の文献によれば,こうした景観のなかに,奈良から移した「十三重の巨大な石塔」や灯籠,清見長者の伝説に因んだ観音堂,その登り口の茅門とその脇の九州から移した仁王像,桂太郎,山縣有朋,杉孫七郎,渋沢栄一の筆になる各碑,「等身大のライオン」,「皇太子様の御手植の松二本」,「樹齢三百年」の松や蘇鉄,等が米糠山を中心にして配されていたと伝えている4-45。写真には石塔が写っているが,5m近くの立像と比較しても大差はなく,石塔としては確かに巨大だったといえるだろう。
 井上の茶人ぶりを示すものとして,魚躍庵と名付けられた茶室もあった。これは当初前述の茶席山に建っていたとされるが,1914(大正3)年の文献に「興津の山上にありし茶室を長者山の麓に移し」4-46との記述が見られる。「長者山の麓」は東側であった4-47。茶室周辺の描写は後述するが4-48,茶室の側に池がありこの池には茶室の名に因んで魚を放していたという4-49。
 また,これらを維持する設備として,柿沼は次のようなものを伝えている。
「本館全面に戸箱を設け,これに植木をあしらい,その中に非常用に径五インチの,消火設備を目につかぬようにして,万一の場合は長者山タンクからの水圧で,ホースをつければ,手早く消火が出来る安全な施設をしてあった。長者山には二つの大タンクを造り,一つは約四百メートル先の清見寺山の地下水を引用して飲料とし,他の一つは七百メートル先の山水を引き,庭の東部の滝へ落し,小川を流れて外へ出る。尚この水は消火線にも通じている。」4-50
 この設備については,先の図4-7でも2本の水路を確認することができ,『世外井上公傳』にも類似の記述が見られる4-51。



4-41 『世外井上公傳(五)』p.250の記述から換算。
4-42 同書p.610
4-43 高橋箒庵の日記『萬象録(1)』p.180にも「井上馨侯より興津別邸の蜜柑及蕪を贈り来る」との記述が見られる。
4-44 『井上侯と西園寺公の逸話』p.21
4-45 『袖師町誌』p.360,『世外井上公傳(五)』pp.607〜609,および『井上侯と西園寺公の逸話』p.20
4-46 『萬象録(2)』p.118
4-47 『井上侯と西園寺公の逸話』p.21
4-48 12.2.[3]参照。
4-49 『井上侯と西園寺公の逸話』p.21
4-50 同書p.20
4-51 『世外井上公傳(五)』p.609



[6]井上邸の特徴
 庭内には各地から移した建物,工作物,植生がさまざまに配され,タンクからの水圧によって滝を落とすなどの近代設備を用いた大がかりな造園がなされていたことがわかる。各地,各時代の名物を蒐集するという考えは,井上ら近代茶人たちの行いと共通し,それが移築や古材の利用,造園にも反映されているといえるだろう。建物から植裁に至るまで由緒があり,由緒のない物には行啓や園遊会などを催して由緒をつくろうとしている。いわばエピソードの集積によって景観が形成されているといえる。こうした造園は,やはり近代茶人である原富太郎の営んだ三渓園などに似るが,井上邸の庭に配される品々は雑多な印象を否めず,明確なコンセプトによって蒐集されたようには見えない。このことは本館の様式にぎこちなさが見受けられるのにも通ずる。
 明治期の大邸宅は洋館と和館を併設することで双方の様式を満足させることが多いが,井上邸の本館はひとつの建物に和洋の様式が混在しており,和洋が一体化する動きの端緒のひとつといえよう。以降の近代和風住宅の流れのなかで再考されるべき点である。このことは別荘ならではの実験性が可能にしたとも思われる。
 井上はこの別荘で園遊会や茶会を多数催している。井上の後,興津には当時の最重要人物の別荘がいくつか造営されてゆくが,この背景には井上邸での園遊会や茶会を通して興津の風光が喧伝されたという事情も推察できる。
 いずれにせよ,井上邸では和洋の両面が混在,あるいは補完し合っている。そのことは鉄道,通信という西洋文明の産物が,和風の生活を支たことにもいえるし,和風の景観や建築のなかで西洋近代的な政策や事業を話し合うという状況にもいえる。さらに,井上の蒐集品は鉄筋コンクリートの倉庫に収められたというし,和風庭園の水はタンクからの圧送によっていたのである。



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