土屋和男



隠居考
『穹+』no.5(2000.11,ヤマギワ株式会社,河出書房新社刊)より
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 「いづれの年よりか,片雲の風にさそはれて,漂白の思ひやまず」と言いながら「おくのほそ道」を書いた松尾芭蕉。奥地であった「蝦夷」から始めて全国を測量してしまった伊能忠敬。われわれが知る彼らの仕事は,彼らがいわゆる隠居してからのものである。
 隠居とは「家」の代表権(家督)を次世代に譲ることを意味するが,ここではもう少し広い意味で,生業を辞した後に有名になった人物の生活や,有力者が第一線を退いたかのように見せながらどのような生活をしていたかなどを考えてみたい。この意味では隠棲,隠遁,隠逸などと言い換えてもよいだろう。ちなみに芭蕉は37歳で隠棲する前には点者業(俳句の先生)をしていたようだが,それだけでは立ちゆかず,神田川の水道工事に関係したりして生活していたようである。また,伊能忠敬は50歳で隠居するが,その前は名主であったという。いずれにせよ,彼らは人生の「奥」において歴史に名を残すのである。


隠居の場所
 「奥」と隠居とは深い関係がある。例えば,江戸城には本丸,西の丸のふたつの御殿があったが,本丸より奥に位置する西の丸は大御所,すなわち隠居した前将軍の居城であった。またそれぞれの御殿は表向(おもてむき),中奥(なかおく),大奥(おおおく)と分かれており,現代では大奥ばかりが知られているが,表向は公式の対面所,中奥は日常生活の場,大奥は女のいる場所となっていた。つまり,建物における位置関係がそのままプライヴァシーを反映していた。この江戸城中奥のくつろぎの場である「休息の間」は,その壁に各地の名所絵が描かれていたが,そのなかで「上段」の床の間,すなわち将軍が座る背後にはどこの絵が描かれていただろうか。その場所を知ることは簡単だが,なぜその場所かというのには意味がある。
 東照宮というと,日光が有名だが上野や静岡の久能山,さらに全国の城下町などにある。東照宮は徳川家康を祀った神社である。家康は将軍職を譲ると,その隠居先に駿府(静岡は明治以降の呼称)を選んだ。つまり,駿府は家康にとっての「奥」であったといえる。家康は駿府で亡くなると,遺言によって駿河湾に近い久能山に葬られた。ここが久能山東照宮の場所である。この東照宮の背後にあたる有度山付近が現在は日本平と呼ばれていて,駿河湾の海上に富士山が見えることで知られる。そろそろ先ほどの答えを明かしてもよいだろう。江戸城中奥休息の間上段床の間に描かれていた名所絵は,この場所からの景観であった。
 その絵は,中央に富士山が聳え,麓は駿河湾,伊豆の山々につながる。手前右には羽衣伝説で知られる三保の松原が浮かび,左には集落とお寺が描かれている。ここに描かれた集落は興津というところで,お寺の名を清見寺(せいけんじ)という。実はこの清見寺,名刹として知られ,家康は子供の頃,今川家の人質時代に預けられていたといわれている。ちなみに,このような絵を描いた,江戸幕府に関する主要な空間を装飾する最高級の絵師を奥絵師といい,狩野派がそれを独占していた。件の構図は狩野探幽筆「富士山図」に基づいている。さらにこの構図は探幽より前から代々描かれてきたもので,遡ると室町時代の雪舟に行き着く。つまり,この構図は伝統的に継承され,さらに隠居した家康によって意味付けされた景観なのである。ここで注意しておきたいのは,久能山東照宮に参詣してもそこからは富士山は見えないのである。件の名所絵の光景は,東照宮の背後の山の奥に広がっているのだ。ちょうど,床の間の前に座る将軍には背後の画が見えないように。


興津の元老
 将軍の背後に富士山とともに描かれていた興津という集落。実はここは明治から昭和戦前期にかけて,ある意味できわめて注目を浴びる土地となる。それは別荘地としてであり,著名な人物が別荘を構えたことから起こる,多くは公にされない人や情報の集積地としてである。
 興津に初めて別荘を造ったのは井上馨である。彼は1896(明治29)年にどこまでが境だかわからないほどの広大な土地を買い占め,別荘とした。時に62歳,以後81歳で没するまで多くをここで過ごし,特に冬の間はここを本拠としていた。明らかに隠居型の別荘である。井上は鹿鳴館に代表される欧化政策で知られるが,その政財界との太いパイプは,プライヴェートでは茶人として発揮された。興津井上邸では毎年のように園遊会や茶会が催され,多いときには250名もが招かれたという。そのときは東京との間に特別列車が走ったそうだ。そのなかでも最も頻繁に訪れているのが,三井の大番頭,鈍翁こと益田孝と箒庵こと高橋義雄である。鈍翁の道楽はよく知られているが,鈍翁や世外こと井上馨について調べるとき,なくてはならないのが箒庵の残した記録である。この人は三井に勤めていたが,50歳で隠居し,その後は茶人として趣味に生き,記録魔と言えるような膨大な日記,茶会記などを残した。箒庵の隠居後についてはそれだけで本ができているので参照されたい(熊倉功夫『近代数寄者の茶の湯』河原書店)。
 興津にはその後,川崎重工の創始者川崎正蔵や,伊藤博文の養嗣子博邦の別荘などができたが,最も有名なのは1920(大正9)年に造られた西園寺公望別荘「坐漁荘」である。こちらは造営時71歳,没時91歳と井上よりさらに気合いの入った隠居ぶりである。西園寺は坐漁荘に住み始めてからのほとんどの期間,ただ一人の元老であった。元老とは後継首相の選任や政策上の重要事項を天皇に諮問する人物で,いわば国政における隠居だが,最も力を持っていた人物とも言える。ために西園寺の坐漁荘は,要人が引きも切らず訪れ,「興津詣で」などと言われた。
 興津の別荘を調べているというと,なぜこの場所なのかという質問をよく受ける。決定的な答えはないのだが,ひとつは行きにくさではないだろうか。井上や西園寺は,表向きは第一線を退いたかのように見せなければならない。それにはそう簡単に客に来られては困るのである。誰が来たかすぐにわかってしまうような小さな町だからこそ,匿名の情報に惑わされることのない環境が得られる。隠居先は場所としても隠れていなければならなかったのだ。もうひとつは,先に見たような古来からの伝統的な景勝地であったことであろう。美術や文学に高い教養を自認し,目利きである彼らにとって,自分の隠居先は,ただ単に物理的な気候や視覚的な眺めだけでは条件を満たしていないのである。それは古典的な意味によって裏打ちされている必要があった。あたかも,将軍が背後に富士山を背負っていたように,自分の住まいも立地していなければならなかったのである。


「自娯」に生きる
 西園寺公望の趣味を見ていくと,文人好みといわれるものに貫かれているのがわかる。海辺の別荘で老人が漢籍を読み,南画(文人画)の軸を掛け,煎茶を啜るといった光景を想像していただきたい。こうした文人趣味は幕末から明治にかけてたいへん流行したようで,このころ多く造られた地方の有力者の家に見られる書院などは,見方によっては文人趣味のための空間とも見なすことができよう。文人趣味は中国を範としていて,陶淵明らの生活を理想としている。それは中国の官僚制度のなかで,士大夫と呼ばれるエリートとして仕官していたが,自らの意思を貫くために,敢えてリタイアした知識人の姿である。彼らが詩を詠んだり,文人画を描く目的は,人に見せたり聞かせたりするよりも,あくまでも自らの楽しみが第一義とされ,このことは「自娯(じご)」という言葉で表されたらしい。江戸中期の文人で『養生訓』を書いた貝原益軒は,その著『自娯集』で「自娯」という語は陶淵明の『五柳先生伝』から取ったと書いている。
 江戸時代には中国のような官僚制度はなかったから,文人のニュアンスは異なるのだが,江戸中期から池大雅や与謝蕪村らによって,中国風の詩書画に親しみ,煎茶を嗜む趣味が確立された。江戸後期の文人画家に田能村竹田(たのむらちくでん)がいるが,この人はまさに隠居と「自娯」を地でいったような人物である。九州豊後岡藩の侍医の家に生まれた竹田は,儒学を学び藩校の頭取にまでなるが,百姓一揆に際し,藩政改革の建言書を提出するが容れられずに辞職,隠居する。その後はしばしば広島や京都を旅行し,頼山陽,菅茶山,青木木米らと文人ネットワークを築いた。竹田は「自娯」という印を篆刻し,自分の画はアマチュアであるというようなことを書いている。
 唐突だが,夏目漱石に『道楽と職業』という講演がある。そこで漱石は,道楽は「己のため」,職業は「人のため」にするものだと言い,「私は芸術家というほどのものでもないが」と言いながら,芸術家は「己のためにする結果」が「偶然人のためになって」いるのであって,彼らは「道楽本位に生活する人間」だと言う。この漱石の見解を聞いてみると,漱石が大学教師を辞し,作家活動に入るのは,道楽に生きること,隠居とは言えないにしても隠居的生活に入ることを意味していたのだとは言えないだろうか。漢籍の知識に優れ,『草枕』に陶淵明を引用し,南画を描くことのあった漱石には,「自娯」の作家としての側面があったように思われる。

 田能村竹田らの描く南画というジャンルの山水画には,見落としてしまいそうな家屋が描かれ,人物がいる。この人物は,隠棲した文人であり,画家の憧れの対象である。そしてその文人の住まいは,山と木々によって隠されている。この画面は,隠棲する人物の住まいとそれに相応しい景観を表現していると言えるのではないだろうか。すなわち「隠れた」人物の生活が,景観としても「隠れた」ものとして表現されているのである。言い換えれば,人生の「奥」にある人物の住まいは,場所としても「奥」にあることが理想とされているのである。現代において,「奥」が失われたということと,理想郷を夢見ることができないということとは何だかつながっているような気がする。



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