土屋和男  常葉学園大学造形学部講師(建築史、都市形成史)

 

 お正月なので富士山である。富士山は静岡側から見るのが一番とよくいわれる。富士宮や静岡から見ると、最高点の剣ヶ峰が中央にきて頂上が三つの峰に見える。頂上を三峰に見なすことは、絵画の典型的表現として長く描かれてきた。室町時代の雪舟の『富士三保清見寺図』は、日本平から見た景観で、中央に三峰の富士山、右に三保の松原、左に清見寺と興津の集落が描かれる。これを手本にして、江戸時代、狩野派の絵師たちが描き続け、将軍の身辺を飾ったので、最高の景観としての評価が定着した。歴史的な文化の蓄積が、実際の景観の評価を高めてきたのである。

 雪舟と同時代、もうひとつその後の文化の典型となるものが生まれた。それは慈照寺(銀閣寺)にある東求堂同仁斎という四畳半の部屋である。これは書院と茶室の、ともに原点となった空間で、いわば和風住宅の元祖である。ここには付書院という出窓と、その横に違い棚がある。付書院には縦長の障子が入り、これを少し開けると外の景色が掛け軸のように見える。ちょうど床の間のように風景を額縁に入れるのである。同仁斎の四畳半は、のちに大きくは書院造へと、小さくは草庵茶室へと発展していった。

 時は移って明治時代、静岡は富裕層の別荘地となった。例えば宮内大臣、田中光顕はまさに富士山を見るための別荘をつくった。昨年重要文化財になった富士川町の古谿荘である。また元老、井上馨は興津に広大な別荘をもっていた。井上は近代数寄者と呼ばれる茶人で、興津の別荘では茶会や園遊会がたびたび開かれたという記録がある。この頃の貴顕たちにとって、茶の湯をやることや別荘を建てることは一種の教養と財力の誇示であったが、彼らは激動期の一匹狼が多く、やることは豪放磊落、形式にとらわれない自由さがあった。そのことが結果的に茶の湯を革新し、近代和風と呼ばれる建築をつくりだしたのである。そして別荘地というのは土地を外から見た結果である。かつての貴顕たちが静岡を別荘地に選んだということは、この土地を客観的に最高の場所と考えた証拠である。

 富士山とお茶。静岡の名物である。言うまでもないことだ。だが、他の土地の人が思うほど、静岡の人はこれを資産と感じているだろうか。見慣れすぎて、あたりまえになっているのではないか。静岡の風土は、他の土地の人々が、歴史的に憬れ続けてきたものなのだ。静岡の人々はこのことを再認識し、より風土の価値を高めていくべきだと思う。そのきっかけとして、風土を「フレームに入れてみる」ことを提案する。同仁斎の障子の間から景色が掛け軸に見えるように、景観を額縁に入れると新しい風景が現れる。「フレームに入れる」のは景観だけではなく、お茶を飲むという日常の行為も、簡単な場所を設定するだけで、ちょっと特別のことのようになる。茶室というのはフレームなのだ。形式にとらわれることはない。あたりまえの風土を「フレームに入れてみる」ことで、静岡のよさを考えてみたい。(1213)