土屋和男



ファンファーレを観て
(2000/5/22 静岡新聞)



 ジョルジュ・ラヴォーダン演出,フランスのオデオン・ヨーロッパ劇場による「ファンファーレ」を観た。(五月十二日,グランシップ中ホール)

 夜,波打ち際とおぼしき舞台に,小さな平らな屋根の粗末な小屋。その正面には出入口がひとつ。その右に椰子の木が一本。
フランス語の通じる南国で,カリブ海のマルティニークあたりか。モロッコかもしれない。20世紀初期の植民都市の街はずれといった印象だ。
この印象は登場人物のファッションや持ち物による。例えば幕開きに舞台上にいるのは次のような人物たちだ。
白い麻のスーツにパナマ帽の男,赤いドレスで足を盥につっこんだ女,牡牛の面を被った漁師らしき男,くわえタバコの女,喪服に黒い帽子の太った男,イブニング・ドレスで肩にファーをまとった女。
くたびれたラジオから雑音混じりの音楽が聞こえ,小屋の出入口には赤,青,黄の安っぽいランプがぶら下がっている。一様に倦怠感が漂う。ここに虎の面を被った小さな男が現れて走り回り,爆竹を打ち鳴らすことで,このシーンが終わる。
全体はこうした映画の断片のようなシーンの連続から構成され,ストーリーらしいストーリーはなく,セリフもない。
小屋の前では,年かさの義足の女が机に向かって書き物をしたり,山高帽子にフロックコートの男が給仕を受けながら食事をしたり,舞踏会の終わった後らしいドレスとタキシードの男女が車(横から射すライトとドアを閉める音で暗示される)で乗り付けたりする。
彼らは皆はじめは静かにしているが,ときおり奇妙な動作をする。義足の女は,小屋の中から「アモール(愛)」を歌ったメキシコの歌が聞こえてくると,足をかばいながらゆったりと踊り出す。それを数人の男女が見守っている。
また,給仕の一人は突然,椰子の木に登り奇声をあげる。これもまた,ほかの給仕たちに見られている。
これらのシーンにあるのは,動作が終わった後の,見られてしまった,あるいは見てしまった気まずさのようなものである。演出家ラヴォーダンの言う「存在の状態」とは,この一瞬に漂う,物語からはずれてしまった宙づりの感覚のことであろう。物語を滞りなく進行させるには,こうした瞬間は排除されなければならない。なぜならこの瞬間の感覚をつくり出しているのは,連続した時空間を前提とした大きな物語とは全く関係のない,その時空間だけに現れる「状態」であるからだ。
人はその気まずさを隠すために笑うが,彼らは笑わない。笑いによって隠蔽されてしまうこの「状態」に耐えている。
しかし,ときにこの「状態」が舞台を覆い尽くしてしまうこともある。冠婚葬祭の帰りのような黒服の男女たちが,ジャンゴ・ラインハルトのジャズに合わせて一団となって踊るシーンがそうだ。これは祝祭の時空間であり,祝祭の表徴である「ファンファーレ」の題名とも関連しているだろう。
また,このような「状態」は,音や光によってももたらされる。突然に横切るプロペラ機の音,遠くの花火の音。これらによって,無関係であった舞台上の人物たちが,同じ方角を仰ぐ。
そして,その音が消え去って,もとの姿勢に戻るまでの一瞬の「状態」。あるいは,電気がショートして電球が切れた一瞬の「状態」。舞台上の動きとは無関係に流れる語りが,「人の都合などおかまいなしに,それは不意にやってくる」と言うのは,この「状態」の性質を示したものだろう。

 舞台に次々と現れる人物たちはお互いにほとんど関係を持っていない。
舞台にあるのは小屋一軒だが,これはきわめて都市的と言える。ちょうど,夏になると海水浴客がやってくる海岸のようなところだ。
そこでたまたま出会ったような互いに見知らぬ者たちが,何かを共に体験してしまう小さな瞬間を,私たち観客は海の方から眺めていたのである。



土屋研究室TOP
Copyright(C)
TSUCHIYA Kazuo
Tokoha Gakuen Junior College
Dept. of Art and Design